「神道」を説明できない日本人

スポンサードリンク

初詣や七五三、お宮参りなどで神社に訪れたり、日本史として古事記や日本書紀、戦前・戦中の国家神道などを学ぶ以外に、私たちが神道に触れる機会は多くはない。しかし、実は神道は、伝統文化だけでなく、現代日本人の精神や考え方習慣に深く根づいています。

一方、日本文化に関心を持つ外国人は確実に増えている。そんな外国人に神道について尋ねられたときに、どれくらいの日本人が正しく説明できるだろうか。大相撲や歌舞伎・能はもちろん、「おもてなし」などの日本人らしさ、自然との関わり、社会思想やグローバリズム、そしてアニメや最先端の量子論にまで、神道の精神は影響しているのだという。

「おもてなし」には神道の考え方が凝縮されている

日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか。理由の一つは、明治維新以来、日本人は、欧米産のキリスト教文化やそれに相反する「近代合理想」をシャワーのように浴び続け、「神道」が日本人自身の思想であることすらわからなくなったことです。

例えば、日本人には「おもてなし」という精神性があります。この「おもてなしの精神」は、欧米の「サービス」の概念とはあくまで異なります。

欧米のキリスト教社会の「サービス」は、「私」と「あなた」、つまり個人と個人の関係をハッキリさせた上での「行為」です。一方、「おもてなし」は、「私」が「あなた」に「成りかわる」ことによって相手への好意を表す日本独自の「好意」なのです。

なぜ、それがわかるのかというと、「おもてなし」には、「神道」の考え方が凝縮されているからです。

例えば、日本人が「おもてなし」するには、お客を「上座」に置いたりします。また、「せっかく人が来られるからには、まずその場所と空間をきれいにし、自らも身ぎれいにしよう」と務めたりするでしょう。これは、「私」が「あなた」と同じだと見立てることで、成りかわっているからこそ起こる出来事なのです。この「おもてなし」の精神は、神道の「神様をお迎えするには、まず自らを見ぎれいにし、上に置くべきだ」という考え方から来ているのです。

神道は「無」や諦めではなく、正しく明るく生きることを説く

人間の現実には良いことも悪いこともあり、不安や恐れ、悩みや無力感など、たくさんの負の感情に左右されます。そういう苦難のときに、キリスト教であれば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、主たる神への「愛」を説きます。また、仏教では「苦」の教えである「三宝印」や「四諦」など「諦め」の大切さが説かれています。

どちらも苦難に立ち向かうには良い考え方だと思いますが、本来の日本人は「愛」や「諦め」を説く前に、「明るく過ごすこと」を大事にします。神道の「浄明正直」とは、つまり、清いことやきれいなこと、明るいこと、自分に正直であることが説かれているのです。

つまり、本来の日本人は、何事もそう簡単に諦めない。また、いつまでも不安や恐怖に怯えてくよくよしても仕方がないから、明るく過ごす。正しく真っ直ぐに生きる──ということを大切にしてきたということでしょう。これはもちろん、いまにも通じ、「明るさ」ということを大事にすれば、そのうち必ず良いことがあるという教えです。

仏教が「人間が目指すべき『無』と『空』の心の体系である」といえるのに対し、神道は、「人間と神々の魂が共同ではたらく『有』の体系」であるということができます。すなわち、神道は「人生には何も無い」ということを説くのではなく、神々にも人間にも「何かがある」と考え、そのために私たち自身が明るく努力して乗り切っていくという考えなのではないでしょうか。

キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。しかし、日本の神道では、自然や人間は、「いまだ造り終えていない」と考えます。『古事記』に出てくる「天地初発の神」である天御中主之神も、「全知全能の神である」とは、どこにも書かれていません。日本神話には、天津神が「この漂へる国を修め理り固め成せ」と命じているだけで、その作業は後世の神々たちに託されています。

神々と人間は調和できる──と考えるのが、日本の神道の特長です。絶対神の下で人間が託された部分を行うという考え方とは違います。よく環境問題などで、「自然との調和」が指摘されますが、本当に自然と人間が調和するのであれば、人間が自然を守るのではなく、人間が自然に守られると考える方が良いのです。

神道は欧米人の主張する「宗教」とは異なる

なぜ飛鳥時代以来、仏教と神道が共存しながら生き残ってきたのか。なぜ日本人は、1年のなかでも、キリスト教でクリスマスを開き、お盆を仏教式で行い、正月には初詣に参拝するのか。この「宗教と宗教の融合性」「異なる宗教の同居性」という問いに対しては、日本の神道が欧米人の主張する「宗教」という枠組みには入らないからである──と答えることができます。

欧米人のいう「宗教」とは、教祖や信仰の対象、教義経典がハッキリしていなければなりません。ところが、日本の神道では、「八百万の神々」というものが信仰的な対象ではありますが、あくまで多神教であり、多くの日本人も決まった絶対神を信じているわけではありません。また、教義経典についても、神道では『古事記』や『日本書紀』などが「神典」として使われますが、「経典」ではないのです。

「共存」あるいは「共栄」というコンセプトこそが、神道の持ち味です。意見や性質の異なる相手と最初ははじき合いながら、「共存」できる場所と時空間をいつの間にか見つけ出して包容し、最終的に共に栄えるように「融合」しながら、自らも元気に生き残るというものです。

神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。さらに、他の宗教に対しては「寛容」であり、人々がきちんと祀りさえすれば、「平和」と国家や社会に「安定」をもたらすと考えられています。

実は、日本の神道は、経済・文化における「グローバル化の時代」にとっても、うってつけの考え方なのです。現在、世界のなかで潮流となっている「多文化共生社会」、「他民族共生国家」、「生物多様性」を理想とするならば、日本の神道がモデルにならなければならないはずです。

神道的価値観と最先端の量子力学は共通する

この世界はいったい何でできていて、どう構成されているのかを突き詰めていくと、科学的には「原子」や「光子」、「電子」、「中性子」など、「量子」や「素粒子」で構成されていることになります。これこそが、最先端の物理科学です。しかも最近では、量子コンピュータの開発が進み、すでに実用化段階に入っています。

しかし、この「量子」とは何か──という問いには、まだ人類は十分に答えられていません。その理由は、欧米の科学を支えて来た「近代合理主義」に反した、「同じ量子でも、波の状態と粒のような状態があり、しかも同時に分かれて存在している」という「多元的世界」が存在し、構成していることがわかってきたからです。

この量子論を神道的価値観で考えると、とたんにわかりやすくなります。例えば、明治時代初期の福羽美静のような神道人たちは、ずっと以前から世界を自由に飛び回る小さな「神々」や「霊魂」を、「霊子」と呼び、神社の「分霊」(分祀)として、「同時に日本中を分かれて飛んで回っている」と解説していました。また、人間の世界に神々が現れる「みあれ」の状態では、「神」は「波」のように揺れながら、現世に現われる「振動状態」となるといわれていました。

量子力学の研究が進むにつれ、私はある確信を抱くようになりました。あらゆる物事とは、一つの価値観で決まるのではなく、多元的に多くの価値観が合わさったり離れたりして、最終的には「共存共栄」するように決まって行くのが正しいという「真理」です。

今後、日本の神道の持つ「多神教的価値観」は、例えば汎用性のある科学的技術の「量子コンピュータ」などの発達のなかで、次々と証明されて行くことになるでしょう。

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

タグ: , , , , , ,